2011年7月3日日曜日

新しい理科の授業について2冊

新しい理科の授業について2

『理科の先生のための新しい評価方法入門』R.ドラン、F.チャン、P.タミル、C.レンハード著。
現在の公教育のあり方は、産業革命時代に新しい工業製品の組み立てライン、工程の規格化が導入され、それが、教育に取り入れられたのが起源である。
教育器具を操作する組み立て工である教師が、親方である校長の厳格な規則の下で、型にはまったことを身につける。その結果だけを重視し、指導過程での努力には価値を認めない。

アメリカは教育システムを構造主義へとシフト転換した。「グローバル社会にて、世界に果敢に挑戦していくような生徒を育て、問題解決および対人関係の技能を身につけ発達させる」よう、教育改革を行った。
科学は、「観察、推論、実験というような技能を学ぶプロセス」として、であり、分析的な思考力を身につけ「人生において、たとえどんな複雑な状況にあっても、問題解決ができることを指している」。

筆記テスト(正誤問題や多肢選択問題)以外の新しい評価方法について、開発すべきであると、この本は提案している。
全ての生徒に、分け隔てなく、教育的な、そして信頼性・妥当性のある情報を提供するため、学習内容にあった、手順・器具・課題を開発し、いろいろなデータを入手する。
また、課題評価は、生徒達の実態に合わせて、柔軟に修正できることが必要であり、学習スタイルや言語能力(帰国子女、移民、学習障害)の違いに配慮しながら、その知識や技能を評価するために、課題を自在に修正できることが必要である。

目的や技能を鋭く絞った評価と、広範な能力を評価するものの2通りに分類できる。評価はまた、今までどおりの筆記も併用するのか、実験のみであるのか、課題は数週間かけて行うのか、一人又はグループで行うのかを決める。正しい評価方法というのが、ただ一つということはあり得ない。よって、評価の開発者自身が、よりよいものになるよう、常に評価のシステムを修正すべきである。

この後、具体的な評価方法や実験方法が、小学校から高校まで、物理化学生物地学ごとに例示されている。
生物分野の例 「クロマトグラフィー」「細胞の大きさ(玉ねぎを使った光学顕微鏡の観察実験)」「ヨウ素液」「脈拍を調べる」「自然選択(種を人為的につまむ)」「二分法」など



『ファーンズワース教授の講義ノート―ゆかいな生物学』鈴木光太郎

アメリカの大学での講義の様子が、楽しく描かれている。大学生が生物学の講義の参考にするのはもちろん、高校生や社会人、教員が学ぶのに参考になる図書である。

教授によると、一般教養の生物学とは、「医者や科学者など、将来科学を専門にする学生、個人として、一般市民として生物に興味のある学生」向けであるとし、上級コースに備えて基礎的知識を身につけなければならないが、建物より、生物教育という土台のほうが堅固でなくてはならない。」……「よい医者であるということは、単に器官の名前を暗記していることだけではない。物事を自分で考えられるということだ。生物100では、君たちに考えさせる。今、世界では単に規則や指示に従うのではなく、自分で理屈を考え出せる優れた科学者、技術者が必要とされている。そしてメディアや政治家の慈悲に頼る必要もなく、自分たちで情報に基づいた選択のできる、賢い市民も必要とされているのだ。」……「他人のアイデアや研究を盗んだら、その人の将来を奪い取ることになる。」

教授は、始めに講義の攻略法をきちんと説明する。ノートとは、教授の話を急いでメモし、後で調べるための必需品であり、聞き逃すと予習復習ができないということが、読んでいると良く分かる。あまりに厖大な説明、一度聞いただけでは理解しにくい多くの情報が盛り込まれており、メモを後で解読する謎解きのような楽しみがある。これが、受講生を増やしている秘訣であろう。
ノートは、ゆくゆくはテスト直前にきちんときれいに清書するにしろ、授業中は先生の言うことを走り書きでメモするためにある。生徒は、自分で今後必要な事項かどうか、取捨選択、判別することができない。そのことを、もう一度小中学校から考え直すべきであろう。マーカーや色ペンでデコりながら、自分の力で考えつつ授業内容をまとめるという、一番楽しい作業を、学校の先生が手取り足取り行い、奪い取っている気がする。
板書のような「要点がきれいに羅列された教科書」、「それを膨らませた指導案のような説明の教科書」であるなら、確かにそれを後で清書させるのも正しい。生徒に国語力があるなら、教科書というものは、参考書や解説書のような、自習独学のためのものであるべきで、授業は国語力のない生徒にも分かるように、あるいはさらに興味関心のある生徒に自ら調べさせるために、行われるのであろう。
また、学校の勉強は、テストのためではなく、社会に出てどんな役に立つためか、教授は説明している。テストとは、自分が何を学び足りないか、また、教師が何を教えたりないか確認する場である。教師は、巣立った生徒に将来治療を受けるかも知れず、役場で手続きや、保険やなんら世話になるかもしれない。その生徒の子ども達がまた、教師の生徒となり、かつての生徒が保護者として再会するのは間違いない。

教授はまた、褒めたり叱ったり、おだてたりおどしたり、やる気を出させながら、一方で生意気な学生になめられないようにきちんとしめてかかっている。初日はスーツでありながら、翌日はバイクで乗り付けたり、アラブ人やドラキュラ伯爵の仮装は、単に授業を退屈させないために、教授は仮装しているのではなく、かしこまった大学教授には聞きにくいと思う質問、例えば、生き物とは何か、という当たり前すぎて間違ったときに恥を掻きたくないような質問、あるいはペニスや膣といった用語について、オフィシャルなところでは恥ずかしく質問しづらい状況を、「仮装空間」により改善するためであると思われる。
教師とはこうあるべきだ、服装や立ち位ぶる舞いに付いて、固定観念を打ち砕いてくれることだろう。

最後の「生物100」秋学期期末テストは、前述の『理科の先生のための新しい評価方法入門』の新しい選択問題、正誤問題の例として、いかがなものであろうか?

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