2011年2月26日土曜日

続ニュージーランド地震に思う

"アバター"

    • 安否情報は、慎重に。テレビドラマのように、助かった人を励ます、みんな無事だと言うたぐいの善意?の嘘は、多くの人を傷つける。助かるはずの生存者が、救助が終わったと勘違いされて見捨てられない事を祈る。遺族を一喜一憂させるのか。
      情報は、正確に。信頼性を確認して欲しい。誰が誰に向かって、何のために発した情報かを大切にしてほしい。


  • 都市災害も、障害者問題も、雇用問題も、人種差別からありとあらゆる人間の差別は、全て人災だ。

    2011年2月23日水曜日

    ニュージーランドの地震で、一刻も早い救助を

    ニュージーランドのクライストチャーチの今日の気温は、雨のため、12度までしか上がらなかったという。
    最低気温が6度といえば、日本の晩秋。
    救助を待っている被災者に、毛布などの防寒具だけでなく、
    例えば携帯カイロのような自ら熱を発するような、救援物資は届かないのか。



    救助を待つといえば、この私自身も、一昨年の春から身に覚えのない罪(経歴詐称、免許状詐称の疑い)
    で就労妨害にあい、日々、尋問と尾行追跡で、犯罪者のように扱われたことがあった。

    そして、やめたあと、本当に経歴を偽らないと、就職できないほど劣悪なデマを流され続け、デマから逃れるために、年齢を偽らなくてはならなくなり、それまでの経歴詐称疑惑を既成事実であったかのように吹聴され、本当に無職となった。

    このことを世間に訴えようにも、情報がやり取りできなくなった。
    昨年の11月まで、まるでチリの炭鉱の落盤の被災者のように、
    外界や自分自身が見えず、聞こえず、自分の声が自分や外界に届かない状態にあった。
    この、今日の提言シリーズだけが、外部へ発信できる手段であった。

    昨年12月に、ようやく「自分の声」を取り戻し、軟禁状態から脱した。
    つまり、とある会社に就職し、両親の自宅に居候しながらはたらいた。
    こうして、
    世界が見え、聞こえ、そして自分自身が見え、自分の声が聞こえるようになった。

    ところが、一年半前の身に覚えのない罪が再び浮上。
    せっかく一度は救出されたにもかかわらず、
    今現在、ふたたび炭鉱の奥深くに埋め戻されてしまっている。
    自分がこのようにSOSを発し続けても、なかなか世間に伝わらないつらさがわかるからこそ、
    今回の地震の被災者の、もどかしいつらさが、伝わってくるような気がしてならない。
    一刻も早く、彼らに救助の手が伸びるよう、そして、
    もし、忘れないでこの私も救出してくださる奇特な人がいればと願わずにいられない。

    2011年2月15日火曜日

    観光ビジネスの記事を読んで

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    • "アバター"
    • 2月14日付けの毎日新聞で、HISの取締役、中森氏の記事を読んだ。
      安価でマニアックな格安旅行で長らく愛用してきたHIS。最近は、メジャーな会社に成長している。今度は、外国人に日本観光をしていただこうという主旨の記事であった。この数年、日本の有数の観光地や温泉地は、外国人ツアーでひしめいている。関西なら、日本海のかにから大阪城、南紀まで、日本人ツアーかと思って耳を澄ますと、さまざまな方言の中国語であったり、韓国語であったりする。先日も、日本橋を歩いていると、店員が客を見るなりその国をあてて、中国語で挨拶し、商品の売込みをしている姿、国際色豊かなテイクアウトの屋台がならぶのをみた。
      記事に載っている「着物を着て記念写真」というのはなかなかお勧めであると思う。中国や韓国を旅行していると、日本の七五三や結婚式の写真に負けないような、まるで映画俳優のような衣装やポーズのアルバムをつくる、そんな写真館をたくさんみた。家族で、個人で、画質の高い、記念になるものだ。旅行の記念に、民衣装を着たいのは日本人も同じ。近畿のあちこちで、プリクラにあったような背景や加工を、本格的な写真館でできれば、よろこばれることだろう。
      蛇足だが、関西国際空港の活性化の内容にも、この写真は生かせないのだろうか。空港施設はそこがすでにすばらしい飛行機のテーマパークであり、人工的な背景が無くても動く本物の飛行機が離着陸している。
      例えば、座席やコックピットを模した、カフェやレストランがあれば、飛行機のチケットが買えない人でも、ファーストクラス気分で、あるいは機長気分で、気軽に写メが撮れて送れる。カップルや家族、外国人受けすると思うのだが、どうであろう。
  • サッカーエリート中学生が相撲の記事にコメント


  • "アバター"
    • 日本サッカー協会のサッカーアカデミーで、相撲実習を行っている記事、2月12日付けを読んだ。体作りのため、相撲部屋で合宿し、掃除、食事の準備、朝稽古などに取り組んでいるという。
      体の華奢で成長期の中学生が、異年齢の集団で精神的に鍛えられること、身体を強くするため栄養摂取について考えること、下半身や体幹の訓練のため、しこやすり足などのサッカーでは使わない動きでトレーニングすることは、有意義であると思う。
      瞬発力をつけるため器具に頼りがちな筋トレよりも、ただのランニングよりも、歩く、立ち座り、といった身体を長時間支持する筋肉の強化がサッカーでは大切であると、常日頃から思ってきた。韓国のサッカー選手がタフなのは、伝統的なバランスのよい食事と、幼少時から登山などよく歩いているお国柄も大きい。
      学生時代に、ただサッカーをしているときは、体重が小さいと吹っ飛ばされることが多く、ゲームで体力をつけてきた。しかし、あるとき、週3回の柔道を始めたところ、ランニング量が減っているのに、あたり負けが減り、ドリブルやシュートが安定した。柔道の畳に寝そべって行う匍匐前進や寝技のトレーニングにより、筋力とボディバランスが高まったのだ。
      レスリングや柔道、相撲のような人類史の原点のような、素手のスポーツは、あらゆる職業やスポーツに必要な何かを備えている。ハングリーさ。冷静さ、全身左右バランスよく鍛えた身体、身体の構造に無理のない動き。さすがに大人のプレーヤーにそこまで必要かは不明だが、成長期に身体に無理なくトレーニングを行うには、ダンベルより自分の体重を生かした筋トレは素晴らしいと思う。
      柔道の受身がバレーボールに生かされるように、
      幼少時はいろいろな基本的動きを学ぶスポーツに触れるべきであろう。

  • スポーツの英才教育とは何か、そのスポーツの発展と彼らの人生について考えられているのか。
    欧米の音楽院やバレエ学校のように、途中で転向することを考えて、
    あるいはゆくゆく有能な指導者になるべく、学業をしっかり修めさせているのか。
    選手寿命を長くするのは、本人の自己管理能力ばかりでなく、必要なときにドクターストップをかけられる審判の能力の高さ、コーチの指導力。そして、自分で練習メニューを考えられるだけの知識は判断力を持つべきだ。
    それは、近代スポーツよりも、伝統武術に伝承されている。自分を高めるために、相手を思いやる。相手に致命傷を与えず、共存共栄する心。それはきれいごとではなく、スポーツ発展のために、選手の、そして観客であるこどもたちの教育のために必要であろう。

    若者の自殺のニュースについて


  • "アバター"
    • 1月3日のニュース について:
    • 自殺者の多い日本が病んでいるのだ。他人の不幸にあまり無関心で、更に不幸を本人の自己責任にして死者までも冒涜する。
      どんな才能なき人も不運な人も人権を尊重されて生きる権利がある。
    今の日本は、バブルの前のように、冷静になっている。うかれて投機することもなく、グルメや海外ブランドに走ることもなく、会社に仕事をしない、させない飾りの社員を置いておくこともない。本当は、健全化しているのだ。
    それをどう、肯定的にとらえ、会社の方向性に生かすのか。10年後の日本がどうなっているのかわらればよい。10年後の政策さえ読めれば、優秀な企業は自社の10年後に向けて会社や社員の雇用や育成について計画を立てることができる。世界経済に左右されない、軸が欲しい。政党や大臣に左右されない、おおまかな共通する日本像、ビジョンをうちたてられないものか。

    • そして私の人生経験からすると、自分をきちんと弁護できるのは自分しがないということ。待っていても他人はかばってはくれない。まして死んだらしてもない罪を着せられても死人に口無し。生きていてこそ、自分の無実を自分で証明できるのだ。若者よ死ぬな!!
    バブル期に日本もそんな自虐的で他人の目を気にする若者になってしまった。
    ヨーロッパとアメリカのよいところを見習うのはいいが、
    落ち着いた、アジアの大人の日本になって欲しい。
    浪費と借金苦で自殺する、無謀な若者に、日本よ、なるな!

    ニューイヤーコンサート2011年について

    "アバター"

    • 昨年のウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートは会場ノリノリ、バレエの衣装も斬新だった。今年は、マニア好みの曲弾き、ちょっと堅苦しかったが、これでもかというくらいオケの潜在能力を掘り起こすかのようだった。若いバレリーナが会場に飛び入り?する演出は、紅白の浜崎あゆみを彷彿とさせたけど、意外性が良かった。

    • 一方、さっき終わったニューイヤーオペラコンサートは、昨年は衣装も演出もいまいちだったが、今回は全体的に好感が持てた。背景のオペラの筋書きが、演歌かトレンディードラマのように、自然と観客に伝わったと思う。ケチをあえてつけるとしたら、女性司会者のクラシックとの違和感と、歌の途中で拍手した観客のレベルの低さであろう

  • どちらも、来年の展開に期待します。庶民受けの走るか、本質を追求するか、
    年末年始の庶民受けするお祭りで、新たな客層の開拓に貢献している。
    しかし、物が本物でないと固定ファンにもそうでない人にも飽きられる。
    既成概念にとらわれないあらたな演出には、拍手を送りたい。