2011年6月27日月曜日

『あなたにとって科学とは何か』柴谷篤弘著を読み返す。


科学の発展と個々の人間の生活との係わり合いを述べた本である。

この本の主題は「わたしにとって」の「科学技術」と、
「科学技術」にとっての「わたし」の2つである。

「わたし」が科学者の立場を侵しもせぬかわりに、科学者からも干渉されずに生きる方法はないものか。と問いかけている。そして、「人間としての科学技術者とは」何かと。

人間は自ら感じ、考え、それによって行動を決めているが、環境や文化に影響を受けており、選択の自由があるようでない。
1人だけ原始時代の生活を送ることもできなければ、異なるエネルギー消費システムや政治システムで生きることができない。
『国家全体の経済』と『エネルギー需要の見取り図』が、科学者など一部の専門家の手で描かれ、昔ながらの生活を営む半農・半漁の人々には、専門家相手に議論しようにも、交渉を継続するチャンスがない。科学が発展するほど、専門家が独走する危険が増すという。
専門家に対する反論もまた、これを切り崩すための『お知恵拝借』としてやはり専門家である科学技術者が疑問をはさみ、反論し、結局は住民が置き去りにされ、科学者対科学者の言い争いとなると言う、
柴谷氏のやんわりとしながら「これではいつも、いつまでも住民が主体になれない」と言う趣旨の、意見である。

科学技術と政治とが連動して、個人の生活を決めていると言う話の後に、国の原子力政策が例に挙げられ、今読むと興味深い。

原子力などの一部の専門家が、他分野の科学者や住民に、口を挟まないよう求めたり、利権で動きがちである。学術会議や科学者会議が公平かどうかを問う。
「人民のための科学」と称して、科学者の意見が住民の意見よりも尊重、優先される社会体制ないしは雰囲気がある、という。
なんのために電気が必要か。つまりたとえていうならば、決まった収入の中から何に消費をするか、必要不可欠な出費項目について家族で相談するよりもまず、出費が増えるのだからと、収入そのものを増やす方向から、検討するようなものである。

これまでも科学者は、良かれと思って、亜熱帯や熱帯の植物を温室で改良し、南国で大量生産させたり、アフリカにきれいな水をと、たくさんの井戸を掘って、乾燥化を促し砂漠を広げたり、科学者を民衆のために使おうと思うアイデアが、結果として、南国やアフリカの人々の主食の生産を奪い、飢餓を広げたと言う記述も、ダーウィニズム、植民地的発想であろう。
また、ベトナム戦争では、効率的な戦略として、枯葉剤でジャングルを枯らすというアイデアは、確かに、科学者が発案している。
比重の大きいウランを使った兵器も、化学兵器も原子爆弾、水素爆弾も、科学者の工夫のたまものである。
柴谷氏の言いたいことは、決して『科学万能で推進』または『原始未開に逆行』の2択ではなく、もっと多くの人が係わって、公平に考えていこうということではないか?

柴谷氏は1977年発行のこの本にて、「日本で原子力発電に対する科学者のあからさまな反対運動がおこりにくいのは、研究費をとめられる心配からである」。また、「環境問題については問題が起こるまで無視されている」のは、「産業と軍隊が融合しているせいではないか」と推察している。

「(教育者および科学の)個々の研究者は、自分がどういう政治的立場で研究をしているのか、ということを、鋭く意識している必要がある」
「対象のすべてを量化し、数式化することが、それを理解するただひとつの方法であると宣言する方法論そのものが、客観性からはずれる」
知識を客観テストで数値化し、偏差値で評価してきた教育に対し、評価するとはこういう手順の事だという思い込みにどっぷりと使っている教育者は、かえって客観性から外れてしまうことを警告している。
専門家(エリート)だからこそおちいりやすい、物事の細部しか見えない盲目の状況を警告している。

合理性と非合理性について、言葉に出来ない「暗黙の知」についての話も興味深い。つまり世の中には、動物の頃よりある言語以前の直感について、量化、数式化では測れないものがあるという。現在の科学者なら、脳には言語以外で処理する動作記憶、空間記憶というものがあるなど、別の解釈を持ってくるかもしれないが、執筆した当時は、科学的には直感としか表現しがたい内容であったのだろう。彼は科学者でありながら、小説『鏡の国のアリス』を表紙にもってくる人物である。脳の右半球的認識、異なった人間の相互理解しつつ個人の知の自立、自主性が育つと、科学者と大衆という区別がなくなるという。「大衆」と呼ばれる人々の実践を尊び、地方分権にマッチした思想である。

「フロンガスによるオゾン層の破壊」「気候変動の問題」「殺虫剤など農薬や遺伝子組み換え作物の問題」「紙巻たばこの害」こういった問題にも、すでに触れている。
住民運動が労働者の職を奪い、近代科学が労働者が新たな危険物質に晒される機会を増やし、また、合理化による職場の縮小をもたらしている。現在の日本を襲っている社会問題は、科学者と大衆のあり方だとすれば、ひとつひとつの問題に取り組む事も大切であるが、科学のあり方について根本から考えていかねばならない。

もう、20年以上も前に、柴谷氏により、現代科学の長所短所について、警告は発せられている。科学を科学者だけのものにしない教育、自分達の生活について、住民が考え、判断し、意見を述べられる社会をつくるための教育が、望まれる。

最後に、科学の「善用と悪用」の政治・社会・倫理の科学化の章について、柴谷氏の本文をそのまま抜粋させていただく。

「実際には、過去10年間(1967~1977年)のエネルギー需要が三倍になったから、今後10年(1977~1987年)についても、ほぼそれに近い増加率を見こみ、発展についてはこれを水力、火力、原子力に配分することになります。すると原子力だけで10年先(1987年)には、現在の電力消費量に相当するものを発電する事を欲求され、火力発電も現在の規模の約2倍が見込まれる、ということになります。そして、それが達成されなければ、未開野蛮にもどるか、電灯がなくていいのかという開きなおりが出てくるわけですが、発電量のどれだけが照明に用いられ、そのうちどれだけがどのような価格で、家庭用照明に用いられるのか、どれだけが電力で、そのうちどれだけが家庭用なのか、そして何よりも巨大な原子力発電所をつぎつぎと建設するのに必要なエネルギー需要と建設された発電所のエネルギー出力との収支は次の十年間にどうなるのかといった点を、くわしく分析したあとでなければ、このようなおどし文句は効果がないでしょう。しかし問題なのは、こういうことが、すべて統計として出されてきて、その判断にはいろいろの技術問題の知識がからんできます。しろうとには、それらのすべてを正しく判断する事はできません。だからおまえたちはだめなのだ、科学技術者・専門家にまかせておけばいいのだ、といわれるゆえんです。けれども一番基本のところには、国民のおのおのが、どういう生活を選んでいくかを、自分で定めるべきだという命題があって、そこのところを国民が、判断しかねるように、判断しにくいように、判断をあきらめるように、科学技術の問題が政治と社会と倫理の領域におしよせてきているわけです。そしてさらに、最近の科学の進展によってこういう人間の主観的な判断が、科学技術知識のもとづいて、客観的になされるようになったのであって、それを信頼しないのは非合理的である、ともいわれるのです。」……省略……「今日では国家や地方自治体の法律や条例の中に、科学技術の概念、それによる定義、それをもとにした操作が、ますます多く半的手織り、社会全体の運行が、著しく変わってきたといえるようです。原子力発電が大規模に行われるとなれば、日本中がこれと共存して生きていく必要があり、それに対する注意やや監視無しには、枕を高くして眠れないと言う事態になります(原子力発電が大規模にならなければ、無理に共存しないという選択肢や、枕を高くして眠れる可能性もある)。科学技術者は社会に必須の人間であり、他の人々はこれに対してあまり口を出せ亡くなります。政策の多くが科学技術の形をとります。電気計算機(2011年現在いうパソコンか?携帯電話を含めてもよいかもしれない。菰池)の普及がその例で、人々の生活、職業のありかた、個人の私生活のあり方などが、短時間の間にいちじるしく変わってきます。一般の人々は、それに対する判断も出来ないままに、国家権力や大資本と結合した科学技術者の「好み」のままに、自分で自分の生活上の重大な選択をする能力を奪われて、ますます多く、管理された生活の中に甘んずるよりほか、しかたがなくなってきます。そういう社会の運営には、明らかに、ますます多くの資源、とくにエネルギーがつぎこまれねばなりません(運営を変えれば、エネルギーをつぎ込まなくてもよい)。そして、もし、その一部が、何らかの理由で円滑に入ってこなくなると、大きな社会的混乱がおこりますが、その際、一般の人々は自分の判断でその混乱に対処し、そこに生じてくる困難を、必要あらば互いに協力して切りぬけてゆく能力も知識も動機もないままに、打ち捨てられてしまうでしょう。
このような観点からすれば、原子力発電の選択は、あきらかに全ての国民に関係した政治的選択であります。しかもそれは世界全体の政治的将来にも密接につながっております。日本がエネルギー源を失うということは、発展途上国のみじめな状態に、日本が身を沈めることに等しいと、よくいわれます。しかし先に述べたように、開発途上国の経済と生産と食糧事情の困難さは、それらの国の社会的制度によると同時に、既開発国の増大していく物質的需要によってつくり出されているのであります。つまり、本来ならばたとえエネルギー資源が乏しくても開発途上国はいまのように困難な状態に転落する必要はなかったのであります(日本も、エネルギー政策を転換していれば、今のような困難な状況に転落する必要はなかったといえる)。したがって、ここでも問題は、既開発国と発展途上国との経済的政治的関係なのであって、既開発国のエネルギー使用の増大は、この傾向をいっそう拡大するものなのであります。しかもことがらはかんたんなものでなく、貧窮化する開発途上国は、既開発国の経済編成にまきこまれつつ貧窮化しているので、現在の経済構造に変化をつくり出せば、開発途上国はその一次生産物(現金作物)を、安値でさえ輸出する道を失って、食糧を輸入する事ができなくなり、飢餓の状態に落ち込んでしまいます(バブルの後、アジア各国で順々に投資熱が高まり、経済構造が変わってしまった。そして、日本を含めて、第一次産業が低迷している上に、食糧を輸入する購買力が奪われつつある。菰池)。また同時に、既開発国の需要に奉仕するための一時的生産に従う人々を失業に追い込む事でありましょう。必要なのは、これらの国々が、何よりもまず食糧を自給する経済に展示、それに応じて既開発国もその物質的な生活水準をきりつめてゆくことにあり、そういう視点からすれば、既開発国のエネルギー需要と社会構造はいちじるしい変更なしにはすまされません。われわれの当面している地球人口と環境危機というのは、元来はこのような性質のものであって、原子力発電の安全性というのはそれにくらべれば、まったく二次的に派生してくる問題に過ぎないのであります。」……省略……「原子力発電のような、新しく発展してきた高度に社会的な領域では、ほんとうの「専門家」などはまだ1人もいるはずがなく、全員が当面する問題について、実は「しろうと」なのである、ということを忘れてはなりません。

『アシモフの科学者伝(原題Breakthroughs in Science by Isaac Asimov)』

『アシモフの科学者伝(原題Breakthroughs in Science by Isaac Asimov)』(木村 繁訳)を読み返す。

高校生以上の読者が、数学や物理学、化学などの歴史を振りかえるには、この科学者伝がお勧めである。
紀元前6世紀の三平方の定理のピタゴラス、紀元前5世紀の幾何学のユークリッド、紀元前3世紀当時の計算法で、アルキメデスは「球の体積が、それを包む最小の円柱の体積の三分の二になる」を発見した。彼らが使っていたのは、位取りのないギリシャ数字であり、新たにギリシャ文字を組み合わせて、累乗表記のような方法を考え出したという。2000年後のニュートンの微積分法は、現在と同じく計算のしやすいアラビア数字である。
(エジプト・バビロニアで生じ、アラビア・ペルシャで発展した数計算(代数)とギリシャで発展した幾何学、幾何学はデカルトらにより代数で表される解析幾何へと融合進化し、微積分法などの解析学が広がって行った数学史が、現在、日本の中学高校で学ぶ「数学」となっている)

ドイツのレントゲンは、真空管「陰極線管」で放電すると生じる線、「陰極線(電子線)」がボール紙やドアを通して化学物質を光らせる未知の線、「X線」という放射線の研究を行った。このX線がウラン塩から出ていることをベクレルが気づき、写真のフィルムと結晶をいっしょにしておくと感光することを発見し、体内をX線が透過することで骨が影として写る、ホラー映画さながらの気味の悪い写真、「レントゲン写真」が生まれた。
後にレントゲンが研究した、「高速の『電子線』が真空管の陽極をたたくとX線が発する原理」。そしてベクレルが研究した「ウランからは、三種類の放射線がでていること、そのうち透過力のもっとも強い放射線はガンマ線(γ線)であること」を、物理学者のトムソンが解明し、原子物理学の基礎を築いたという。
(のちにラザフォードにより、三種類の放射線のうち2つが、アルファ(プラスのヘリウム原子核)線、ベータ(マイナスの電子、陰極線よりも高速)線と名づけられ、3つめのガンマ線は、のちに結晶による回折実験によって電磁波であることが確かめられた。
ちなみにX線は①透過作用ばかりではなく、レントゲンの気づいた②蛍光作用、トムソンが解明した③電離作用、ベクレルが気づいた④写真作用、そして生物学者マラーの発見した⑤生物体に対する作用がある。
⑤の発見者であるマラーは、遺伝学でノーベル賞を受賞しており、「知能と社会的協調性に優れた男性の精子を冷凍保存して子供に恵まれない夫婦に人工授精を施す(後に『ノーベル精子バンク』へと発展)」運動を熱心に行った他、放射線によって突然変異が誘発されることを発見し、原子力エネルギーの普及に伴って、人類の遺伝的資質が将来弱体化することを深く憂慮していたという。
ウランが出す放射線の研究者、マリー・キューリーは、60代で白血病で死んでいる。)

ニュージーランド生まれでイギリスでトムソンの元で研究していたラザフォードが、(原子番号7番、質量14である)窒素原子にアルファ線(原子番号2番、質量4のヘリウム原子核)をあて、ベータ崩壊により(原子番号8番、質量17である)酸素原子に変える実験を1919年に行った。そして、1931年にアメリカのローレンスが、陽子を高速でぐるぐるとまわすサイクロトロンの研究を始め、1940年代には最初の原子炉の開発を研究した。また、大量の(天然のウランでは質量238のところ、235しかない珍しい放射性同位体)ウラン235と人工元素の(天然ウランからつくる質量239の放射性元素)プルトニウム239をつくる計画を進めたという。
アイザックアシモフは、この著書にて、「原子爆弾の形での核爆発は、人間にとって非常に危険なものとなりうるが、それは普通の爆発についても同様である。ふつうの火も危険なのだが、人類はそれを使って、はかり知れないほどの利益を得てきた。人類は、いま原子の火を制御できるようになったのだが、それを賢く使いこなすことができるだろうか。」と述べている。


1454年にドイツ人、ヨハネス・グーテンベルグが活字印刷を始め、イタリア、フランス、スイスに波及し、1476年にイギリスでも印刷所が始めて設立されてから、ヨーロッパの文化が世界を制するようになった。
ヨーロッパではそのときになってようやく、一般市民にも読み書きが必要だ、市民のための公教育、市民のための公立学校が必要だということに気がつく。それまでは、アジアの方が文化的に優勢であった。
ギリシャやローマの文献は、図書館のお陰で紀元前の知識が後世に伝えられてきた。エジプトのアレキサンドリア、トルコのコンスタンティノープル(イスタンブール)の文献が1204年に十字軍に荒らされ、1452年にトルコ軍に占領されて以降、地中海諸国の文化はイスラム圏で保存されていた。
木版印刷の世界最古は日本の770年に刷られた百万塔陀羅尼であるという。日本では庶民が読み書きそろばんを習い、その気になれば寺という大学に出家し、学問を修めることが出来た。
(手書きの聖書がイギリスで初めて英語で発行されたのが14世紀、活字印刷で英語で聖書が刷られたのは1526年という『英語の冒険』)
「印刷が世論、コモンセンス(常識)をつくりだした」という。

活字文化が衰退すると、文化が衰退する。森林が消え、水が枯渇すると文明が衰退する。電子文化一辺倒ではなく、もう一度、活字文化を温存する方向へ、検討できないものか。

過去の知識を大切にする文明が、反映し生き残ってきた。過去の知識は、図書館の文献であり、年長者である。年長者を大切にしてきたところに、古代文明が栄えている。
一人の個人で改良、発見できることは限られているのであり、新しい問題や災難も、過去の文献により、工夫して乗り越えていける。

また、狭く深い学問の追及のやり方を改められないであろうか。紀元前のギリシャやローマ、後の16世紀ルネッサンスのヨーロッパの科学者は、数学も医学も天文学も治めるばかりでなく、絵画や音楽などの芸術も学んでいた。革命的な発想は、狭く深い追求では生まれないことを表しているのではないか。現在の科学が煮詰まっているとすれば、遠くの一点または近くの一点を見つめる、望遠鏡または顕微鏡を覗くような視野の狭さではなかろうか。

『パンダの親指』by Stephen Jay Gouldを読み返す

進化論再考のエッセー
『パンダの親指』by Stephen Jay Gouldを読み返す

「教師というものは……自分の影響がどこまでおよぶかを知ることは決してできない。ヘンリー・アダムス」
「発生生物学は、分子遺伝学と自然史とを統一的な生命科学へと統合することになるかもしれない。スティーブン・J・グールド」
多細胞生物の胚発生はいつどのように表現するかという、オーケストレーションのタイミングの調整については、単なる遺伝暗号(DNAの三つ組暗号)ではなく、もっとレベルの高い制御が存在するはずであるという。
ダーウィンの進化論を「雌に接近するための雄に同士の競争」および「雌自身による雄の選択」という性淘汰の考え、人間の知能の起源ついて、ウォーレスの反論。
人間の脳の大きさと知能に相関があると唱え、白人男性の優位性に関して、ブローカ言語中枢を発見し「人類学」を確立した医学者ブローカ。同じく医者であり、障害児の学校の校長であったモンテッソーリも、児童の脳の大きさと知能とに相姦が有ると考えていた。フランスの動物学者であり化石による比較解剖学から「古生物学」を確立したキュビエ男爵の脳の大きさの話。
21番目の染色体が3本ある症候群を発見したダウン博士が、アジア人のような白痴として「蒙古白痴」と蔑視した時代背景。犯罪者や知的障害者を進化の退行、「先祖がえり」「発育停止」ととらえていた時代でありの化石人類、「下等」人種の正常な成人、白人の子ども、「先祖がえり」「発育停止」をした不幸な白人男性の4つに、関連があるとダウン博士が間違った洞察を行ったことによる。

恐竜は脳の大きさの割りに、温血で機敏に動いていたという説は、今日では普通に見られるが、1980年の出版当時には画期的な意見であった。水の浮力の中でのそのそ動いていたのではなく、尻尾を持ち上げ、首を絡めあい、地面を駆け回っていたという挿絵は、ジュラシックパークなど後の映画に影響を与えたのだろうか。
また、有袋類が有胎盤類に劣るという説に対しても、たまたま、有胎盤類のほうが激しい競争にもまれてきただけであり、北半球に有袋類、南半球に有胎盤類がいたならば、有袋類の方が勝っていたかもしれないという。
人類も、たまたま白人が北半球にいただけで、北半球にもともと有色人種、アフリカ南部とオーストラリアと南米にもともと白人がいたなら、ヨーロッパとアメリカで栄えたのは有色人種で、白人がアフリカから奴隷としてつれて来られていたのかもしれない。
弥生人の方が日本列島でのんびりと暮らし、大陸でもまれたたくましい体格の縄文人が農耕と共に日本列島にやってきていたなら、弥生人が山間部においやられ、平野で政権を握ったのは縄文人であったかもしれない。

「われわれは生存機械―遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械―なのだ」と著書で述べた、ドーキンスの『利己的な遺伝子』。物質を原子よりも小さい単位で考える世界から、生物の個体、さらに生態系や宇宙まで拡大する階層構造でいえば、ドーキンスは生命の進化を、いままで着目されてこなかった遺伝子という小さなレベルについて考え、遺伝子を人間や国家のようにたとえて説明しているという。そうでなければ、自分の繁殖を犠牲にする、「一見、利他的な行動」は説明できないという。
スティーブン・J・グールドは「多数の遺伝子たちが議員総会を開き、同盟を結び、条約に加盟するチャンスを狙い、(これから)起こりそうな状況を予測するのだ」とドーキンスの考え方をたとえている。
しかし、分子レベルの物理的な単純な現象のみで考えられるのかと疑問を持っている。しかも、ドーキンスも本当は分かっていてあえて遺伝子にのみ着目して説明しているのではとことわっている。
小さな遺伝子はいつもいつも淘汰という検閲を受けるために表面に現れるとは限らず、検閲を受けない部分もあるのではないかといっている。生物体は遺伝子によって作られた様々な部分が、協同して複雑な相互作用をし、環境から長年にわたって影響を受けるという歴史を経ているという。
私たちは、遺伝子が万能でないことをしっており、たとえクローンでも環境や経験によってまったく同一の生命体に成長しないことをもはや体感的に知っているのである。
検閲を受けない遺伝子が残る偶然性(遺伝的浮動)について、木村の中立説のことをいおうとしているのかもしれない。

かつて、生命は動物と植物という2つに分けられていた。それは世の中の人間は男性と女性の2つしかないというくらい明らかなものとされていた。
生物学が動物でもなく植物でもない、第三の生物菌類が存在する、あるいは原生生物、原核生物を加えた五界説などという頃、社会的には白人男性のグループとその他のグループというおおきな2択が揺らいでいる時期であった。
白人女性、白人の子ども、化石人類、下等人種の正常な成人、先祖がえりや発育停止をおこなった不幸な白人男性の中から、白人女性や有色人種の人権という問題が浮上、さらに障害者の人権やネアンデルタール人がいかに現生人類に近いかという化石人類の人権問題まで浮上してきた。
こうやってつきつめていくと、生命の尊さ、生命の分類、人間社会における生命の区別というものが、いかに人間の主観であり、「科学的に正しく分ける」ということが、「平等に扱うこと」や「正しく扱うこと」とに決してつながらないことを示している。

ハレー彗星を発見したイギリスの天文学者ハレーは、地球の自転は年々遅くなっていることを発見した。ドイツの哲学者カントは、月の引力による潮汐摩擦が、地球の自転をおそくしていると主張し、天文学者のジャストローとトンプソンは潮汐摩擦は「回収できるものなら全世界の必要量の何倍もの電力を供給するだろう。しかし、沿岸部の海水をかき回し、地殻の岩石の温度を上昇させるだけで消えていく」という。さらに、サンゴやオームガイのからには、一日の潮汐による縞模様が年輪のごとく記録されているという。水中をを毎日上下するだけで縞ができるなら、確かに津波による海水のかき回しも、貝に記録されるに違いない。貝の化石に過去の津波のあとが発見される日も近いのかもしれない。
月は現在は30日で地球の周囲を公転するが、貝の化石によると42千万年前には一日が21時間で、そのうち月はたった9日で公転していたのではという。3億五千万年前に一月27日という説もあるが、その頃の生物は時間の流れを今とは違って感じていたことには舞がいないだろう。そして、クレーターのはっきり見える巨大な月が、地平線や水平線から昇ってきて、その体内に与える影響も今より大きかったことだろう。
細胞の感じる発生分化の時計、生物の持つ体内時計、体の大きさと寿命の相関を考えると、人間の時間の体感のなぞが、やがて解明されていくに違いない。

2011年6月23日木曜日

脳は、どのように時間を感じるのか

脳は、どのように時間を感じるのか。
自由な発想で考えてみる。

細胞は、自分の時計を持っており、刻々と遺伝子が解かれ、その時期に応じた情報が活発に取り出されて細胞の生涯を終える。
分化により、寿命の長い細胞や、プログラム死を迎える細胞に分かれる。脳は、発達を終えると後は萎縮する一方であると言われている。
脳は、どのように人生を、時間を感じているのだろうか。

一般に、忙しいときほど早く時間が過ぎ、歳をとるほど時間が早く過ぎる気がすると言われている。これは、気のせいなのか?
忙しいと気がまぎれるのか?歳をとると、物忘れが激しく早く時間が経つ気がするのか?

脳の処理が、複雑な事項ほど多くのメモリーを消費し、ゆっくり作動する。
幼児期は慣れていないために、ゆっくり作動するが、複雑なことはまだできない。
全てのことを克明に記録し、有意義な時間を送っているはずである。

青年期、壮年期には、厖大な情報や作業を同時進行でこなしており、ひとつひとつの作業はパターン化され、あまり記憶されずに且つ、複雑なソフトが多くのメモリーを消費し、動作が重たく、よって時間を早く感じるのか。
歳をとるほど、簡単なこともかなり集中して行わなければならなくなる。やはり、複雑なソフトを起動したときのように、動作が重たく、よって、時間を早く感じるのか。

こう、考えると、脳の老化、細胞の老化は、たとえ一卵性双生児でも、違ったスピードで進み、寿命は異なるのかもしれない。時間はみな、同じ長さで流れていない可能性がある。酸素を多く消費すると、早く細胞は老化する。複雑な作業で動作の重たい脳細胞は、若いままであるのか?あるいは、筋肉のように、使うほど余裕が生じ、怠けると消耗が激しいために早く老化するのであろうか?

よく、「運動ばかりしていると脳まで筋肉で出来ている」というばかばかしいジョークを聞く。しかし、脳も使えば使うほど、栄養や酸素を蓄えているのかもしれない。脳のスタミナが切れると、神経痛になるのか?すぐに真っ白になったり、すぐに酸欠で視野が真っ黒になったりする。脳も、脊髄のように、使いすぎると神経痛を起こすはずである。夜になると、脳も疲れて緩慢となり、朝は記憶も優れている。
夜、眠っていると、記憶は、似た記憶はまとめられ、省略され、コンパクトに収納される。また、引き出しやすいように見出しやタグをつけられて、収納されていく。この作業も、やりすぎると脳は疲れる。夢を見すぎると、朝起きると脳が疲れていることがある。夢を見すぎると、夜、時間の経つのが遅く感じられる。
ということは、夢を見ない間には、神経細胞を休めたり、ストレッチなどのメンテナンスをしているのか?その間に電気の刺激がないために、時間があまり経っていないような気がするのか。そして、良く寝るほど、眠る時間が長いほど、脳細胞の寿命は長いのか?結果、長生きにつながるのか?

脳のことは、あまりに分かっていないことが多い。脳死の脳は何を考えるのだろう。本当に、夢を見ていない状態で寝ているのに近いのであろうか?それとも、悪夢を見た後のように、気分が悪く体がだるいのであろうか?
あるいは、脳が生きたまま、心臓が止まった身体は、何を感じているのだろう。彼らは、夢を見ているように、何かを感じ続けているのだろうか?家族の声を聴き続けているのだろうか。それはどのくらい続くのか。トンネルをくぐる気持ちであるのか、暗い穴に落ちる感覚であるのか、河を渡ったり、光の方に向かう感覚であろうか?
瀕死から蘇った人は、死にかけながらいろいろ考える余裕があったという。彼らの過ごす時間は、かなり長いに違いない。それは、脳が酸素と栄養を使い尽くし、血流が止まって保温機能の高い頭蓋骨中の高温が続く間中、活発に行われるに違いない。

寿命の来た人の脳は、酸素も栄養も少なく、速やかな停止を向かえることだろう。そして、若くして自ら寿命を縮めた人は、かなり長い停止までの時間を、苦痛と共に過ごすのだろう。死者の脳に、質問することが出来るなら、あえて知るべきであろうか、それとも知らないという幸せを選ぶべきであろうか?一生に一度の楽しみとして、苦しみとして。

2011年6月20日月曜日

脳は、どのように記憶し、連携するのか

脳は、どのように記憶し、連携するのか。
自由な発想で考えてみる。

脳は、多くの情報が記憶され、同時にいろいろなことが可能であるが、仕組みがあまりよくわかっていない。

最近はコンピュータにたとえられることが多く、一時記憶を行う部分、短期記憶を行う部分、長期記憶を行う部分など、記憶をになう箇所も分業されており、
視覚聴覚などの情報が脳内で心で見る映像再現部分、心で聞く音声再現部分、臭いや味や触覚を再現する部分といった、感覚神経の記憶を統合するところ。
手足の動きや口の動き、平衡感覚や一連の動作を記憶する、運動神経の記憶を統合するところ。
読み書きのソフトやビデオのソフト、計算ソフトが起動する部分。
そして、それらを総合的に組立て、並べ、分析して結論づける、意志の部分。

人間の記憶も、電気信号のオン、オフであるのか。それとも、物質か何かが変形したままとなり、それが記憶となるのか。その変形は可逆的であるのか。記憶が一度行われると何度も訂正が難しいのは、変形がせいぜい2往復どまりで、それ以上変化しないとすれば、タンパク質か何かが立体構造を変えるのか。

仮に、電気信号や物質が2種類で記録するならば、一次元ならバーコードのような記憶とうちであるのか?脳が自ら、脳波により立体スキャンが可能ならば、それは3次元の立体バーコードであり、記憶の種類の区別もかなり可能であると思われる。
人は記憶の糸を手繰ろうとするとき、視線を上に向けて脳内のないものを見ようと神経を傾ける。あるいは、脳内の信号を聞こうと耳を傾ける。脳波は視覚でキャッチできる電磁波なのか、それとも音波のエコーの共鳴で拾っているのか。コウモリやイルカなどが音で遠隔地の障害物の距離や形を測定できるなら、たった10cm四方の脳内くらい、簡単に測定できるのかもしれない。

五感はどのように再現されるのだろう。そもそも、感覚神経は一方通行なのか。神経細胞が数cmから1m単位の長さであるならば、細胞内の伝導により、逆向きにも伝わるのではないか。このため、網膜の視神経細胞は受信機であり映写機となり、内耳の聴神経細胞は仮想のマイクであり仮想のスピーカとなるのか。そして、それは一本の神経細胞では交互通行であるが、数本の束であれば、光ファイバーのように、同時に情報が行き来できるのであるか?

脳内で考えるとき、動物は動きの記憶で覚えている。歩く、走る、回転する、動きの記憶を並べることで考えることが出来る。
脊椎動物は、五感の感覚の記憶で考えている。絵や映像を並べたり、音を並べたり、臭いや味の記憶、皮膚感覚の記憶を順番に並べることで、暑いときにはどうしよう、敵が着たらどう逃げよう、抽象的な事も思考できる。
ホ乳類にいたっては、記憶の絵カードを使って、かなり高度な文章作成能力があるのではないか。
鳥類やイルカなどは、絵カードの変わりに、それを表す単語の音声も持ち合わせている。彼らは頭の中で言葉が鳴っているはずである。人間と同じく、言葉で考えている可能性がある。

ヒトは更に言葉を文字という絵カードでも記憶している。仮に音声で記憶できなくても、文字が浮かび上がって欠落した記憶を補うことが出来る。テレビや映画のテロップのように、文字放送で考え、記憶することも可能であるが、音声のスピードには叶わない。音声の情報は、短時間に膨大な量の再生力がある。一秒間に、十数文字以上、つまり、普通は聞き分けられないほどのスピードで再生できるはずである。というのも、本の黙読では、一ページを読むのに、数秒しかかからないこともある。映像においては、もっと速い。生命の危機の折には、ビデオの早送りのように、これまでの人生を短時間で再生可能といわれている。すでに記憶されている内容を再生するだけであれば、脳内で記憶を再現するスピードと言うのはすさまじい。
おそらく、デジタル放送のように、いくつものチャンネルを同時に画面に表示して、複数の音声と画面を、同時進行で処理できるのであろう。ヒトは音楽を聞きながら、他人の話を聞きながら、返事を考えながら、一方で本を読み続けるなどと言う芸当が出来る。

しかし、聞き覚えのない言葉、見覚えのない風景、新しい概念を記憶するとき、ヒトの脳の処理速度は低下する。また、高度のソフトが起動すればするほど、処理速度と平行して出来ることが限られてくる。
また、自律神経をコントロールし、精神を集中させることが出来れば、日頃よりも多くの情報を処理することが出来る。試験や災害時、頭が真っ白になる人と、日頃よりも冴え渡って火事場のくそ力の出る人とがいる。脳内の各部署の連携がスムーズかどうかで、処理速度は変わる。
睡眠不足や腹が減ると、処理速度が早くなる場合と鈍る場合とがある。脳に血液がいきわたり、酸素や糖分がゆきわたっていると、寝不足や空腹に関係なく処理が早くなるばかりでなく、消化するための血液が減り、頭に血が上るのではないか。過度の睡眠不足は、記憶の欠落や同時進行処理を妨げる。また、長期間の低血糖も、一時記憶の低下を招く。体脂肪が栄養を蓄えるように、脳内にも酸素や栄養を蓄えるシステムがあるのか?

脳の前頭葉は、多くの人格で成り立っている。小さいときに使用したわがままな人格、群れる少年時代、孤独な青年時代、そして、成人した後の職業や使用する言語、話し方により、多くの人格が立体的に重なり合って機能している。多くの人は、その人格の記憶が統合されており、会話や行動の端々で、様々な人格が見え隠れしている。
また、運動選手になりきったつもりになると思わぬ好プレーが出来たり、歌手になりきったつもりで歌うと、感情のこもった歌唱力が再現できることもある。人は、自分のキャラクターを意図的に選びながら生活している。そのとき、過去に出会った人物の話し方や行動パターンを伴奏として、それにあわせて再現させることで行動を補正している。
会話や行動は、リズムであり音程や強弱のパターン記憶である。
同年代の多くの会話パターンや行動パターンが詰め込まれている人ほど、未経験の出来事に対応できる、つまり、人間が歳をとる、行動が大人になるというのは、会話や行動パターンの蓄積量に比例している。これは頭の回転の速さとは直接は関係がなく、人生経験の長さといえるが、より速やかに取り出せる人ほど、会話が豊かでコミュニケーション能力が高いと言える。

脳内の記憶を取り出すとき、ヒトは「自分の声の音色の記憶」を再生させて、単語を取り出している。脳内に散らばる記憶を拾い集めながら文章を組み立てるとき、自分の話し方に組み替えて再生させている。他人の声でも出来るが、処理速度が落ちたり、思考が他人になる。英語で考えると英語の性格、標準語で考えると標準語の性格の人物となる。幼児語で再現して子どもに話しかけると、甘えた幼児的発想となり、よく、恋人同士などで会話される。老人の言葉遣いで再現して話しかけると、説教臭くなったりもする。人は年少者に叱るとき、叱る相手よりも年齢の高い人の話し方や立ち居ぶる舞いで箔をつける。スラングや暴力映画で得た単語を再現すると、荒っぽい性格のぞんざいなものの言い方となる。よって、自分の音色で自分の話し方で再現できなければ、その人なりの思考と言うものが成り立たない。抽象思考は、その人の母語でしかも本来の音色やキャラクターで最大限発揮される。男性は男らしい話し方と口調で再現できなければ、抽象思考ができない。そして、男言葉は意思疎通に誤解の生じにくく、歯切れよく、無駄の無い、抽象思考に向いた話し方である。研究やビジネスに向いた、よろいを着た話し方である。
一方、子どもや恋人に話しかける言葉は、女性らしい、やさしく、ゆっくりとした、抑揚のある、主観的な話し方である。家庭やプライベートな相談に向いた、腹を割った話し方である。
記憶と音色は密接であり、他人の口調を思い出すときは、その人の声色とよく使う言い回しや単語と結びついている。つまり、マナーを思い出すとき、小さい頃の両親の叱る声が再現されたり、中学校の数学の内容を思い出すと中学校の数学の先生の口調が再現されたりしている。学生時代に学んだことは学生時代の口調や音声で記憶されており、自分で取り出すときもその音色の音声で響いている。そして、記憶には複数のタグがつけられており、インターネットの検索のように、「彼女について思い出せ」と言うタグで、過去に付き合った女性がつぎつぎとピックアップされるような時間と空間を越えた記憶再生法もあれば、その彼女に付随して、一緒に見た映画や音楽などが思い出される芋づる式の記憶再生法もある。暗記上手な人は、タグのネーミングのつけ方と、芋づるの結び付け方がうまい。
そして、人間は長く生きるほど、似たような言葉を再利用する。例えば、「紙」という単語の記憶量は小さい。しかし、トイレで思い出せばトイレットペーパー、電話やスーパーではメモと、場所と共に記憶すれば意味は多様となる。読書時にはしおりをはさめ、パソコン時にはプリンターに入れておけという動作の指示、あるいは「何月何日にだれそれに書類を渡す」と言う複雑な内容を「紙」の一文字で記憶することも可能である。そして、こういった複雑な意味を伴う記憶は、人間、一人一人によって異なり、他人にはまねのできない記憶再生法となる。こればかりは、どんなに科学が発達して、脳波から思考が読み取れるようになっても、他人の心を完全に覗くことができない理由の一つである。

『ペルセポリス”Persepolis” Marjane Satrapi』(園田恵子訳)を読み返す

『ペルセポリス”Persepolis” Marjane Satrapi』(園田恵子訳)を読み返す。

イランもタイや日本と同様、アジアの中では欧米の植民地地図の緩衝国として、独立を保ってきた。
イランはイギリスなど、石油資源に進出してきた国からの干渉を避けようとして、米英の反感を買い、石油輸出を妨害されるなどの経済封鎖を受け、1979年の革命より王制が廃止され、現在のイスラムシーア派が民族主義路線を継承しているという。
タイが、小乗仏教を広め、西暦でない佛歴で独自の文化発展を遂げてきたのと、日本が天皇制を続け、神道と大乗仏教などを明治以降軸に独自の文化発展を遂げてきたのと、同様であるが、イランの方がかなり早く西洋化を遂げていたのに対し、今ではタイや日本のほうが西洋化が進んでいるかのように報じられている。

当時から、オイルショックなど、石油はゆくゆく枯渇する、代替エネルギーの開発といいつつ、日本はそのまま自動車社会を加速させ、発電は原子力へと路線を変えていった。米英が必死になって石油の利権を守ろうとしたのは、30年後、40年後の石油価格の高騰を見越してであろう。油田があるというだけで、中東の方が欧米よりも発言力が増すことを恐れた。その頃の日本は、50年後、100年後の日本像をどう描き、努力してきたのだろうか。

アルプスの少女ハイジならぬ、イランの少女マルジと副題の付いた、「ペルセポリス」、主人公マルジは2011年現在41~42歳。10歳の時に革命を体験し、14歳でオーストリアのウィーンに留学する話である。というのも、彼女もまた、ウィーンと言うとハイジのような女性がいるような牧歌的なイメージを抱いていた、20世紀になって、これほど世界中にカメラが持ち込まれていても、写されているのはその国らしい意図された映像であり、取捨選択された古典的イメージなのか。
18歳のマルジが帰国して聞いた第3次中東戦争の話は、同級生が戦場に送られるなど、バブルに沸く日本と対照的である。しかし、彼女はマイケルジャクソンを聞き、欧米文化を愛する現代女性でもある。


改めてペルセポリスを読み返すと、あの、日本の1980年代の繁栄はなんであったのか。朝鮮半島を、ベトナムを、中東を踏み台にして稼いだ豊かさであったのか。あの頃の日本には、イランやタイからの多くの出稼ぎ労働者が来ていたはずだ。しかも、そこそこの学歴や経歴の人が、建設現場や歓楽街で、「肉体労働」に励んでいたはずである。
日本の大卒の若者が、中国やインド、タイやイランに出稼ぎに行く日がいづれ来るとすれば、日本の何が問題であったのだろう。
親日的なイランの人々が出迎えてくれた2003年のイラン旅行を思い出す。タイやイランに信頼され、尊敬されていた日本に戻るためには、地球全体の地下資源、農産物、漁獲物を公平にわかちあい、欧米ともアジア、ラテンアメリカ、アフリカ諸国と文化を尊重しあう関係を、あらためて歴史を振り返り、改めるべきところは改める必要があると思う。

『英語の冒険”The Adventure of English” Melvyn Beragg』(三川基好訳)を読み返す

現代英語、日本で言う女子高生の絵文字のような、絵や発音記号のような英語が、フェイスブックやブログに登場して久しい。今でも英語は、科学の発展と多くの言語を巻き込むことで進化し続けており、生まれたイギリスの標準英語から遠ざかりつつある。
もちろん、方言はイギリスにも多く、イギリスでは今でも地域ごとにバラエティ豊かな方言が健在である。日本の学校教育のリスニングテストで聞きなれた耳には、とても同じ英語とは思えないような、豊かな発音の英語が生きている。
『英語の冒険』を読むと、英語が吸収してきた外国文化と、英語が発信してきたイギリス文化の歴史を、共有できるような気がしてくる。

英語教育が世界中で広まったのは、産業革命のお陰である。だが、辞書の功績が大きい。つまり、英語の書き方、発音の仕方のマニュアル本が、他国よりも広く早く普及したために、海外でも教えやすかったのだろう。

この『英語の冒険』によると、イギリスでは、14世紀にラテン語の聖書が英語に翻訳され、17世紀に英語の辞書がでてから、標準英語がイギリス中に広まり、方言は恥ずかしいと言う概念が生まれた。
16世紀末から17世紀にシェークスピアの劇が現在のテレビや映画のように全国区で流行となってからは、シェイクスピアの台詞が流行語となり、全国共通のジョークや共感を生み出した。日本で、世代共通の感覚、日本全体の流行というのが生じるのは、テレビの存在が大きい、そして、標準日本語の普及が進んだのも、戦後のテレビの影響であったのかと思う。
そして、外国語であるラテン語の本ではなく、イギリス人が英語の書籍を大量に出版できるようになり、科学がそして産業革命が進んだのも、注目に値する。
これまで、どんな発見も発明も、いつ誰がどのように行ったのか、記録されずに来ている。しかし、書籍のお陰で、庶民の工夫や発明がイギリス中で共有されるようになったという。物理学も、化学も、博物学も、当時、サイエンス(科学)と呼ばれた学問は、特別な科学者ばかりでなく、語学に長けたいわゆる文系の学者や、中小の町工場で発展してきた。
今の学校の教科や科目の分類、一部の科学者の独占が、なぜか不自然に思えるほど、誰もが身近なところで様々な領域の最先端に触れている。

「コンピュータ用語」「映像や音響機器」など、最新の発明や製品に関する英単語を、各国が自国語に翻訳すべきところを、ついつい直訳が難しく、カタカナ英語で取り入れて来た。
英語が世界のグローバル化を進めてきたと言っても過言ではない。
英語がこのように普及したのが、この百年二百年のことであり、インドが植民地化されるまでは、インドの方が商業など、豊かな文化を営んでいたという。むしろ、ヨーロッパでは、北欧や地中海諸国に比べ、海外進出が後発隊であったイギリスであるから、他のヨーロッパ諸国には負けるまいという自負があり、伝統や貫禄を宣伝する戦略に長けてきたのかもしれない。自国に対するイメージ戦略は、アジアの各国も見習っている。日本が、政治システムや教育等でイギリスをモデルにしてきたのは、資源の少ない島国の生きる術を、イギリスが発信してきたからであろう。

現在、グローバル化の弊害も目立ってきている。再び、自国語のよさ、方言の良さ、中小の町工場が時代の最先端を行くことも見直し、英語に征服されるのではなく、英語と言う道具を世界で共有できればと願う。
そして、日本語という道具や日本文化も、英語のように世界で愛されればと願う。日本語でなければ説明できない概念、「かわいい」という単語のように、アニメやティーンエイジ文化と共に、大人の文化、平和の輸出をしていきたい。

そのときには、「日本語の冒険」をまとめるような、自称「アマチュア」が日本に育つのだろうか。

2011年6月4日土曜日

“震え”の仕組み、解明の記事を読んで

“震え”の仕組み、解明の記事を読んで

530日にたまたまJR大阪駅ホームにいて、面接の緊張の後に腹が減ったのか、ぞくぞくっと胃の裏に寒気が走った。そういや、高熱が出る前も震えるが、あれは本当にウイルスや細菌のせいなんだろか。いや、病原体と戦う前に、武者震いしているんじゃないか。体温を高めて、いざ戦いに備えているのではないか?そんなことを考えていたら、61日に京大等の生理学の研究の記事が載っていた。

ラットの脳神経回路を調べると、皮膚が冷やされるときの反応と、感染症にかかったときの反応が同じであるという。どちらも、発熱物質がつくられ、間脳視床下部の「視策前野(体温調節)」部位から延髄を経て運動神経を経て筋肉を動かす。平素は、血糖が下がったり冷えてくると視床下部が交感神経に働きかけて脂肪を燃焼させる。
高校の教科書では、低血糖の時も低体温の時も、視床下部の血糖センサーや体温調節中枢が働いて、交感神経によりアドレナリンの分泌が盛んになり、血流が増え、血糖値が上がる。脂肪は燃焼すると、グルコースの2.7倍の酸素を消費する半面、2倍のエネルギーが得られると言う。糖の燃焼よりも油の燃焼の方が発熱効率が良いため、体温をすばやく上昇させるときには脂肪を燃焼させるのだろう。
冬の裸の乾布摩擦や、寒中水泳など、低体温での運動は、心臓の負担は大きいが、体内脂肪を効率よく燃焼させる秘訣なのかもしれない。

震えには、「感染症による震え」、「酸欠による震え」、「低体温による震え」、
「筋疲労による震え」、「麻痺やてんかんなど神経による震え」等が思いつくが、皆、原因は同じなのであろうか?

前者4つは、細胞内でエネルギー欠乏が起こる、あるいは起こると予想されるときに、酸素を多く取り込み、糖を消費してエネルギーを大量発生しているのであろう。インフルエンザのひき始め、下痢の直前のあの寒気は、身体が実際は平熱であるのに平熱に感じていない。脳が、低体温であるかのような錯覚を起こしている。これから起こるべきエネルギー大量消費に備え、血液が内蔵に集結していて、本当に脳内が低血糖であるかもしれない。

後者もやはり、交感神経や運動神経の過緊張によるものなのであろうか?その原因は、幼少時の高熱や化学物質などであるのか?例えば、幼少時に高熱が続き、熱が出ている状態が平熱であると発達中の脳神経が構築され、体温が下がったときに低体温であると脳が錯覚している。そんな可能性も考えられないだろうか。

寒いと腹が良く減る。ほっとすると腹が減る。運動不足のほうが胃腸が良く休まっており、運動直後よりも腹が減る。腹が減る仕組みと脂肪燃焼の仕組みが分かれば、低栄養の人が効率よく栄養を蓄え、メタボの人が効率よく体脂肪を燃焼させることだろう。

2011年6月2日木曜日

なぜ、非正規雇用の中途採用は進まないか

なぜ、非正規雇用の中途採用は進まないか。

大学でしっかり学び、資格と実力のある若者が、就職で能力を生かせず、畑違いのところに就職しようとしている。それでも職のない若者は、就職浪人し、フリーターをして正規雇用にチャレンジし続けているが、見つからないか、見つかってもすぐにやめざるを得ない状況である。
今、社会で何が起こっているのか。

学校では、正しい職業観を育成し、フリーターを無くそうと、必死であるが、「彼らは楽な就職をしてしまう」と先生は快く思っていない。
職安は、若者から意欲を引き出そう、若者の立場に立ってカウンセリングしてやろう、少しでもミスマッチを防ぎ、優良な会社を紹介してやろうとするが、やる気がなかったり、すぐやめてしまうと、快く思っていない。

仲介者、会社の人事担当者は、意識改革すべきことがある。
何のために正社員になり、転職したいのか。何のために、中途採用したいのか。双方から前もって聞くべきことが不十分である理由を考えるべきである。

例えば、ワープロの仕事があるとしよう。とある会社は、パソコンの出来る若者が欲しい。「これこれの条件で、ワープロソフトのできる正社員」と希望する。「アットホームだ」「会社にテニスコートがある」「海に保養所がある」などと、若者にアピールすることもある。若者の方が、「これこれの条件で、デスクワークがしたい。パソコンが出来る。趣味はテニス」と希望する。一見、相思相愛に見える。しかし、会社にあるのは一太郎で、テニスコートは夜間照明がないかもしれない。若者はwordしか触ったことがなく、会社は痺れを切らして、一太郎の得意なやつを雇うから、自主退社してくれとなる。

企業は、どんな人材を求めているか。
一時的に新規分野の専門家を入れ、知識技能を補いたい、ピンチヒッターが欲しい、そして、規模を縮小したり、分野が変われば解雇する人材が多い。そのため、前の会社の経験そのままの即戦力を求め、正社員の生え抜きよりも悪い条件で求めてくる。
しかし、少々のでこぼこは大目に見ないと、欠けている形とまったく同じ形のピース(人材)をさがすジグソーパズルばかりをやっていると、小粒な人材しか集まらなくなる。
知識技能や経験のない若者の場合、もっと悪いことに、体力だけを当てにされる。きつい仕事でめいっぱい酷使し、つぶしてから次の若者にすげ変える。不景気で代わりがいくらでも雇え、雇用対策の手当をもらいながら短期で使い解雇する悪徳会社も横行する。職安が会社へ紹介をやめると、会社名を変えて参入し続ける。

転職者は、より良い会社を求めている。不景気で不本意な会社に入ったり、以前より条件が悪くなる一方である。前の会社よりも能力を発揮し、別の職種で可能性を伸ばし、以前よりも福利厚生や給与のアップを願う。経験のない若年者にいたっては、職種を選ぶ自由がほとんどない。今は皆、資格を持っていて当たり前、ペーパードライバーを雇う中小企業は少ない。

会社は、もっと具体的に面接で聞くべきである。ワープロは、どのソフトが出来るか、あるいは、パソコンは、手書きの書類をすばやく打てるのか、ホームページがつくれるのか、会社で必要なスキルについて、もっと突っ込んで聞くべきである。会社のホームページに、会社の思想であるとか、今後の計画をオープンにできる範囲で、詳しく説明すべきである。そして、部門にしても、どういう類の人材が必要なのか、明確にすべきである。
若者の方は、会社研究にて、単に会社の規模であるとか、概要ばかりでなく、どんな分野をこれから発展させようとしているのか、自分の伸びたい方向と一致しているのか、調べるべきである。があまり述べられていないため、社会人経験が少ない、あるいは異業種から参入する場合、何を面接で聞くべきかおさえどころがつかめないのが実情である。たとえ同業種であっても、同じ職務か違う部署で行われたり、やり方が異なる。

そこで、学校や職安など、紹介する側はお互いが何を求めているか、もっと掘り下げるべきである。好景気の時ならば、上に伸びようとする企業、別の業界に手を広げようとする企業が多く、本人の望む方向と比較がしやすかった。また、企業の方も、研修など、社員の成長を待つ体力があった。今の状況を体力と共に温存仕様としている現状で、社員に新しい冒険をさせる余裕もなく、就職してもしばらく下積み、あるいはずっと下積みで終わってしまう。社員の横のコミュニケーションばかりでなく、上に意見をくみ上げる努力があれば、お互いのニーズにパズルのピースが擦り寄っていくであろう。

新しい雇用創出案

新しい雇用創出案。

公設楽市楽座、公設リサイクル工場、公設雑貨工場案。

日雇い街に、低所得者用の住宅、商店、工場がもっと必要である。都会のど真ん中にこそ、色々な所得の段階の人が利用できるような施設が必要である。

たとえは悪いが、15年前のインドでは、5ルピーで豆カレー(日本で言うご飯と味噌汁)が食べられる屋台、2050100200ルピーの高級ディナーと、様々な段階の食道やレストランがあり、財布に応じておなか一杯食べることが出来た。また、地下鉄や高層ビルが最新の機械で建設されるすぐ横で、手作業のレンガ造りの露天掘りの日雇い労働者が、時間を掛けて商店を修理している。日本も、何もかもオートメーション、大規模化ではなく、あえて手作業手工業の復活を、公設で安全安心に行うべきであろう。

縁日やフリーマーケットの感覚で、格安で飲食物を提供できる屋台を、きちんとした手続き衛生管理の下で営業できないものか。一般の商店の邪魔にならないよう、深夜休日のみであるとか、時間を限れないものか。そこで、近隣の庶民が自由にエントリーして稼ぐ、あるいは労働者も店番に参加できるようにする。観光客も地元の住民も自由に飲食できるように出来ないものか。
また、同じく低所得者の多い地域に、手工業中心の工場を建てられないだろうか。刑務所や障害者作業所などで行われているような、儲けにはなりにくい手作業を、公設で大規模施設で行う。内容は、リサイクル製品、100円ショップで売るような、国産では採算が合わなかったような日用品である。
かつて、工場でラインでつくっていた中高年の失業者を指導者に呼び戻し、機械や機器を解体して、使えるものを寄せ集めて再利用し、製品とする。ガソリン車も、新車を次々量産するより、かつてのコンピュータの入っていないパワーステアリングもないシンプルなマニュアル車を解体し、日本で唯一のオリジナル車にペイント、デコレーションして、付加価値をつける。大手の自動車工場は、エコカー、ハイブリッド、電気自動車中心にシフトし、ガソリン車は中古のリサイクル車を主に出来ないだろうか。

工場で問題になるのが、品質を維持すること、そのために高給になりすぎること、かといって時給をさげられないことである。一日の作業時間を減らすことで、年齢や体力に応じ、短時間で集中して働いて能率を上げる。公設でなければ、民間の会社では採算が合わない。それでも、治安を維持し、社会の購買力を底上げするために、投資していくべきであろう。
長期失業者、ホームレスをまず、毎日のシフト、一日1時間から4時間くらいで組み込み、そこで月々一定時間働くことを住居と食事提供の条件とする。しかし、シフトは当日に断れるような任意性にし、義務にはしない。障害者、生活保護者、高齢者、そして失業中で待機している人を、週1時間から予約制、あるいは当日キャンセル待ちで参加できるようにする。
勤務表は列車やコンサートホールのチケット予約システムで、あちこちから同時に予約を入れられるようにする。出来た製品は、先ほどの深夜や週末の楽市楽座屋台で、やはり、チケット予約システムで募った店員にて、格安で売る。
工場の作業レベルによって、訓練のいらないものはCチケット、誰か、ベテランがついていて横で指導が必要なものはBチケット、ベテランや、検査を行うものはASチケットなど、ランクをつけて募集すればよい。定期的に利用する人は会員制にして、優先的にASSSなどの高収入に入ることが出来、高収入チケットのポイントがたまれば、職安での転職時に有利なるなど、モチベーションが高まるものが良い。