2011年6月27日月曜日

『あなたにとって科学とは何か』柴谷篤弘著を読み返す。


科学の発展と個々の人間の生活との係わり合いを述べた本である。

この本の主題は「わたしにとって」の「科学技術」と、
「科学技術」にとっての「わたし」の2つである。

「わたし」が科学者の立場を侵しもせぬかわりに、科学者からも干渉されずに生きる方法はないものか。と問いかけている。そして、「人間としての科学技術者とは」何かと。

人間は自ら感じ、考え、それによって行動を決めているが、環境や文化に影響を受けており、選択の自由があるようでない。
1人だけ原始時代の生活を送ることもできなければ、異なるエネルギー消費システムや政治システムで生きることができない。
『国家全体の経済』と『エネルギー需要の見取り図』が、科学者など一部の専門家の手で描かれ、昔ながらの生活を営む半農・半漁の人々には、専門家相手に議論しようにも、交渉を継続するチャンスがない。科学が発展するほど、専門家が独走する危険が増すという。
専門家に対する反論もまた、これを切り崩すための『お知恵拝借』としてやはり専門家である科学技術者が疑問をはさみ、反論し、結局は住民が置き去りにされ、科学者対科学者の言い争いとなると言う、
柴谷氏のやんわりとしながら「これではいつも、いつまでも住民が主体になれない」と言う趣旨の、意見である。

科学技術と政治とが連動して、個人の生活を決めていると言う話の後に、国の原子力政策が例に挙げられ、今読むと興味深い。

原子力などの一部の専門家が、他分野の科学者や住民に、口を挟まないよう求めたり、利権で動きがちである。学術会議や科学者会議が公平かどうかを問う。
「人民のための科学」と称して、科学者の意見が住民の意見よりも尊重、優先される社会体制ないしは雰囲気がある、という。
なんのために電気が必要か。つまりたとえていうならば、決まった収入の中から何に消費をするか、必要不可欠な出費項目について家族で相談するよりもまず、出費が増えるのだからと、収入そのものを増やす方向から、検討するようなものである。

これまでも科学者は、良かれと思って、亜熱帯や熱帯の植物を温室で改良し、南国で大量生産させたり、アフリカにきれいな水をと、たくさんの井戸を掘って、乾燥化を促し砂漠を広げたり、科学者を民衆のために使おうと思うアイデアが、結果として、南国やアフリカの人々の主食の生産を奪い、飢餓を広げたと言う記述も、ダーウィニズム、植民地的発想であろう。
また、ベトナム戦争では、効率的な戦略として、枯葉剤でジャングルを枯らすというアイデアは、確かに、科学者が発案している。
比重の大きいウランを使った兵器も、化学兵器も原子爆弾、水素爆弾も、科学者の工夫のたまものである。
柴谷氏の言いたいことは、決して『科学万能で推進』または『原始未開に逆行』の2択ではなく、もっと多くの人が係わって、公平に考えていこうということではないか?

柴谷氏は1977年発行のこの本にて、「日本で原子力発電に対する科学者のあからさまな反対運動がおこりにくいのは、研究費をとめられる心配からである」。また、「環境問題については問題が起こるまで無視されている」のは、「産業と軍隊が融合しているせいではないか」と推察している。

「(教育者および科学の)個々の研究者は、自分がどういう政治的立場で研究をしているのか、ということを、鋭く意識している必要がある」
「対象のすべてを量化し、数式化することが、それを理解するただひとつの方法であると宣言する方法論そのものが、客観性からはずれる」
知識を客観テストで数値化し、偏差値で評価してきた教育に対し、評価するとはこういう手順の事だという思い込みにどっぷりと使っている教育者は、かえって客観性から外れてしまうことを警告している。
専門家(エリート)だからこそおちいりやすい、物事の細部しか見えない盲目の状況を警告している。

合理性と非合理性について、言葉に出来ない「暗黙の知」についての話も興味深い。つまり世の中には、動物の頃よりある言語以前の直感について、量化、数式化では測れないものがあるという。現在の科学者なら、脳には言語以外で処理する動作記憶、空間記憶というものがあるなど、別の解釈を持ってくるかもしれないが、執筆した当時は、科学的には直感としか表現しがたい内容であったのだろう。彼は科学者でありながら、小説『鏡の国のアリス』を表紙にもってくる人物である。脳の右半球的認識、異なった人間の相互理解しつつ個人の知の自立、自主性が育つと、科学者と大衆という区別がなくなるという。「大衆」と呼ばれる人々の実践を尊び、地方分権にマッチした思想である。

「フロンガスによるオゾン層の破壊」「気候変動の問題」「殺虫剤など農薬や遺伝子組み換え作物の問題」「紙巻たばこの害」こういった問題にも、すでに触れている。
住民運動が労働者の職を奪い、近代科学が労働者が新たな危険物質に晒される機会を増やし、また、合理化による職場の縮小をもたらしている。現在の日本を襲っている社会問題は、科学者と大衆のあり方だとすれば、ひとつひとつの問題に取り組む事も大切であるが、科学のあり方について根本から考えていかねばならない。

もう、20年以上も前に、柴谷氏により、現代科学の長所短所について、警告は発せられている。科学を科学者だけのものにしない教育、自分達の生活について、住民が考え、判断し、意見を述べられる社会をつくるための教育が、望まれる。

最後に、科学の「善用と悪用」の政治・社会・倫理の科学化の章について、柴谷氏の本文をそのまま抜粋させていただく。

「実際には、過去10年間(1967~1977年)のエネルギー需要が三倍になったから、今後10年(1977~1987年)についても、ほぼそれに近い増加率を見こみ、発展についてはこれを水力、火力、原子力に配分することになります。すると原子力だけで10年先(1987年)には、現在の電力消費量に相当するものを発電する事を欲求され、火力発電も現在の規模の約2倍が見込まれる、ということになります。そして、それが達成されなければ、未開野蛮にもどるか、電灯がなくていいのかという開きなおりが出てくるわけですが、発電量のどれだけが照明に用いられ、そのうちどれだけがどのような価格で、家庭用照明に用いられるのか、どれだけが電力で、そのうちどれだけが家庭用なのか、そして何よりも巨大な原子力発電所をつぎつぎと建設するのに必要なエネルギー需要と建設された発電所のエネルギー出力との収支は次の十年間にどうなるのかといった点を、くわしく分析したあとでなければ、このようなおどし文句は効果がないでしょう。しかし問題なのは、こういうことが、すべて統計として出されてきて、その判断にはいろいろの技術問題の知識がからんできます。しろうとには、それらのすべてを正しく判断する事はできません。だからおまえたちはだめなのだ、科学技術者・専門家にまかせておけばいいのだ、といわれるゆえんです。けれども一番基本のところには、国民のおのおのが、どういう生活を選んでいくかを、自分で定めるべきだという命題があって、そこのところを国民が、判断しかねるように、判断しにくいように、判断をあきらめるように、科学技術の問題が政治と社会と倫理の領域におしよせてきているわけです。そしてさらに、最近の科学の進展によってこういう人間の主観的な判断が、科学技術知識のもとづいて、客観的になされるようになったのであって、それを信頼しないのは非合理的である、ともいわれるのです。」……省略……「今日では国家や地方自治体の法律や条例の中に、科学技術の概念、それによる定義、それをもとにした操作が、ますます多く半的手織り、社会全体の運行が、著しく変わってきたといえるようです。原子力発電が大規模に行われるとなれば、日本中がこれと共存して生きていく必要があり、それに対する注意やや監視無しには、枕を高くして眠れないと言う事態になります(原子力発電が大規模にならなければ、無理に共存しないという選択肢や、枕を高くして眠れる可能性もある)。科学技術者は社会に必須の人間であり、他の人々はこれに対してあまり口を出せ亡くなります。政策の多くが科学技術の形をとります。電気計算機(2011年現在いうパソコンか?携帯電話を含めてもよいかもしれない。菰池)の普及がその例で、人々の生活、職業のありかた、個人の私生活のあり方などが、短時間の間にいちじるしく変わってきます。一般の人々は、それに対する判断も出来ないままに、国家権力や大資本と結合した科学技術者の「好み」のままに、自分で自分の生活上の重大な選択をする能力を奪われて、ますます多く、管理された生活の中に甘んずるよりほか、しかたがなくなってきます。そういう社会の運営には、明らかに、ますます多くの資源、とくにエネルギーがつぎこまれねばなりません(運営を変えれば、エネルギーをつぎ込まなくてもよい)。そして、もし、その一部が、何らかの理由で円滑に入ってこなくなると、大きな社会的混乱がおこりますが、その際、一般の人々は自分の判断でその混乱に対処し、そこに生じてくる困難を、必要あらば互いに協力して切りぬけてゆく能力も知識も動機もないままに、打ち捨てられてしまうでしょう。
このような観点からすれば、原子力発電の選択は、あきらかに全ての国民に関係した政治的選択であります。しかもそれは世界全体の政治的将来にも密接につながっております。日本がエネルギー源を失うということは、発展途上国のみじめな状態に、日本が身を沈めることに等しいと、よくいわれます。しかし先に述べたように、開発途上国の経済と生産と食糧事情の困難さは、それらの国の社会的制度によると同時に、既開発国の増大していく物質的需要によってつくり出されているのであります。つまり、本来ならばたとえエネルギー資源が乏しくても開発途上国はいまのように困難な状態に転落する必要はなかったのであります(日本も、エネルギー政策を転換していれば、今のような困難な状況に転落する必要はなかったといえる)。したがって、ここでも問題は、既開発国と発展途上国との経済的政治的関係なのであって、既開発国のエネルギー使用の増大は、この傾向をいっそう拡大するものなのであります。しかもことがらはかんたんなものでなく、貧窮化する開発途上国は、既開発国の経済編成にまきこまれつつ貧窮化しているので、現在の経済構造に変化をつくり出せば、開発途上国はその一次生産物(現金作物)を、安値でさえ輸出する道を失って、食糧を輸入する事ができなくなり、飢餓の状態に落ち込んでしまいます(バブルの後、アジア各国で順々に投資熱が高まり、経済構造が変わってしまった。そして、日本を含めて、第一次産業が低迷している上に、食糧を輸入する購買力が奪われつつある。菰池)。また同時に、既開発国の需要に奉仕するための一時的生産に従う人々を失業に追い込む事でありましょう。必要なのは、これらの国々が、何よりもまず食糧を自給する経済に展示、それに応じて既開発国もその物質的な生活水準をきりつめてゆくことにあり、そういう視点からすれば、既開発国のエネルギー需要と社会構造はいちじるしい変更なしにはすまされません。われわれの当面している地球人口と環境危機というのは、元来はこのような性質のものであって、原子力発電の安全性というのはそれにくらべれば、まったく二次的に派生してくる問題に過ぎないのであります。」……省略……「原子力発電のような、新しく発展してきた高度に社会的な領域では、ほんとうの「専門家」などはまだ1人もいるはずがなく、全員が当面する問題について、実は「しろうと」なのである、ということを忘れてはなりません。

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