脳は、どのように記憶し、連携するのか。
自由な発想で考えてみる。
脳は、多くの情報が記憶され、同時にいろいろなことが可能であるが、仕組みがあまりよくわかっていない。
最近はコンピュータにたとえられることが多く、一時記憶を行う部分、短期記憶を行う部分、長期記憶を行う部分など、記憶をになう箇所も分業されており、
視覚聴覚などの情報が脳内で心で見る映像再現部分、心で聞く音声再現部分、臭いや味や触覚を再現する部分といった、感覚神経の記憶を統合するところ。
手足の動きや口の動き、平衡感覚や一連の動作を記憶する、運動神経の記憶を統合するところ。
読み書きのソフトやビデオのソフト、計算ソフトが起動する部分。
そして、それらを総合的に組立て、並べ、分析して結論づける、意志の部分。
人間の記憶も、電気信号のオン、オフであるのか。それとも、物質か何かが変形したままとなり、それが記憶となるのか。その変形は可逆的であるのか。記憶が一度行われると何度も訂正が難しいのは、変形がせいぜい2往復どまりで、それ以上変化しないとすれば、タンパク質か何かが立体構造を変えるのか。
仮に、電気信号や物質が2種類で記録するならば、一次元ならバーコードのような記憶とうちであるのか?脳が自ら、脳波により立体スキャンが可能ならば、それは3次元の立体バーコードであり、記憶の種類の区別もかなり可能であると思われる。
人は記憶の糸を手繰ろうとするとき、視線を上に向けて脳内のないものを見ようと神経を傾ける。あるいは、脳内の信号を聞こうと耳を傾ける。脳波は視覚でキャッチできる電磁波なのか、それとも音波のエコーの共鳴で拾っているのか。コウモリやイルカなどが音で遠隔地の障害物の距離や形を測定できるなら、たった10cm四方の脳内くらい、簡単に測定できるのかもしれない。
五感はどのように再現されるのだろう。そもそも、感覚神経は一方通行なのか。神経細胞が数cmから1m単位の長さであるならば、細胞内の伝導により、逆向きにも伝わるのではないか。このため、網膜の視神経細胞は受信機であり映写機となり、内耳の聴神経細胞は仮想のマイクであり仮想のスピーカとなるのか。そして、それは一本の神経細胞では交互通行であるが、数本の束であれば、光ファイバーのように、同時に情報が行き来できるのであるか?
脳内で考えるとき、動物は動きの記憶で覚えている。歩く、走る、回転する、動きの記憶を並べることで考えることが出来る。
脊椎動物は、五感の感覚の記憶で考えている。絵や映像を並べたり、音を並べたり、臭いや味の記憶、皮膚感覚の記憶を順番に並べることで、暑いときにはどうしよう、敵が着たらどう逃げよう、抽象的な事も思考できる。
ホ乳類にいたっては、記憶の絵カードを使って、かなり高度な文章作成能力があるのではないか。
鳥類やイルカなどは、絵カードの変わりに、それを表す単語の音声も持ち合わせている。彼らは頭の中で言葉が鳴っているはずである。人間と同じく、言葉で考えている可能性がある。
ヒトは更に言葉を文字という絵カードでも記憶している。仮に音声で記憶できなくても、文字が浮かび上がって欠落した記憶を補うことが出来る。テレビや映画のテロップのように、文字放送で考え、記憶することも可能であるが、音声のスピードには叶わない。音声の情報は、短時間に膨大な量の再生力がある。一秒間に、十数文字以上、つまり、普通は聞き分けられないほどのスピードで再生できるはずである。というのも、本の黙読では、一ページを読むのに、数秒しかかからないこともある。映像においては、もっと速い。生命の危機の折には、ビデオの早送りのように、これまでの人生を短時間で再生可能といわれている。すでに記憶されている内容を再生するだけであれば、脳内で記憶を再現するスピードと言うのはすさまじい。
おそらく、デジタル放送のように、いくつものチャンネルを同時に画面に表示して、複数の音声と画面を、同時進行で処理できるのであろう。ヒトは音楽を聞きながら、他人の話を聞きながら、返事を考えながら、一方で本を読み続けるなどと言う芸当が出来る。
しかし、聞き覚えのない言葉、見覚えのない風景、新しい概念を記憶するとき、ヒトの脳の処理速度は低下する。また、高度のソフトが起動すればするほど、処理速度と平行して出来ることが限られてくる。
また、自律神経をコントロールし、精神を集中させることが出来れば、日頃よりも多くの情報を処理することが出来る。試験や災害時、頭が真っ白になる人と、日頃よりも冴え渡って火事場のくそ力の出る人とがいる。脳内の各部署の連携がスムーズかどうかで、処理速度は変わる。
睡眠不足や腹が減ると、処理速度が早くなる場合と鈍る場合とがある。脳に血液がいきわたり、酸素や糖分がゆきわたっていると、寝不足や空腹に関係なく処理が早くなるばかりでなく、消化するための血液が減り、頭に血が上るのではないか。過度の睡眠不足は、記憶の欠落や同時進行処理を妨げる。また、長期間の低血糖も、一時記憶の低下を招く。体脂肪が栄養を蓄えるように、脳内にも酸素や栄養を蓄えるシステムがあるのか?
脳の前頭葉は、多くの人格で成り立っている。小さいときに使用したわがままな人格、群れる少年時代、孤独な青年時代、そして、成人した後の職業や使用する言語、話し方により、多くの人格が立体的に重なり合って機能している。多くの人は、その人格の記憶が統合されており、会話や行動の端々で、様々な人格が見え隠れしている。
また、運動選手になりきったつもりになると思わぬ好プレーが出来たり、歌手になりきったつもりで歌うと、感情のこもった歌唱力が再現できることもある。人は、自分のキャラクターを意図的に選びながら生活している。そのとき、過去に出会った人物の話し方や行動パターンを伴奏として、それにあわせて再現させることで行動を補正している。
会話や行動は、リズムであり音程や強弱のパターン記憶である。
同年代の多くの会話パターンや行動パターンが詰め込まれている人ほど、未経験の出来事に対応できる、つまり、人間が歳をとる、行動が大人になるというのは、会話や行動パターンの蓄積量に比例している。これは頭の回転の速さとは直接は関係がなく、人生経験の長さといえるが、より速やかに取り出せる人ほど、会話が豊かでコミュニケーション能力が高いと言える。
脳内の記憶を取り出すとき、ヒトは「自分の声の音色の記憶」を再生させて、単語を取り出している。脳内に散らばる記憶を拾い集めながら文章を組み立てるとき、自分の話し方に組み替えて再生させている。他人の声でも出来るが、処理速度が落ちたり、思考が他人になる。英語で考えると英語の性格、標準語で考えると標準語の性格の人物となる。幼児語で再現して子どもに話しかけると、甘えた幼児的発想となり、よく、恋人同士などで会話される。老人の言葉遣いで再現して話しかけると、説教臭くなったりもする。人は年少者に叱るとき、叱る相手よりも年齢の高い人の話し方や立ち居ぶる舞いで箔をつける。スラングや暴力映画で得た単語を再現すると、荒っぽい性格のぞんざいなものの言い方となる。よって、自分の音色で自分の話し方で再現できなければ、その人なりの思考と言うものが成り立たない。抽象思考は、その人の母語でしかも本来の音色やキャラクターで最大限発揮される。男性は男らしい話し方と口調で再現できなければ、抽象思考ができない。そして、男言葉は意思疎通に誤解の生じにくく、歯切れよく、無駄の無い、抽象思考に向いた話し方である。研究やビジネスに向いた、よろいを着た話し方である。
一方、子どもや恋人に話しかける言葉は、女性らしい、やさしく、ゆっくりとした、抑揚のある、主観的な話し方である。家庭やプライベートな相談に向いた、腹を割った話し方である。
記憶と音色は密接であり、他人の口調を思い出すときは、その人の声色とよく使う言い回しや単語と結びついている。つまり、マナーを思い出すとき、小さい頃の両親の叱る声が再現されたり、中学校の数学の内容を思い出すと中学校の数学の先生の口調が再現されたりしている。学生時代に学んだことは学生時代の口調や音声で記憶されており、自分で取り出すときもその音色の音声で響いている。そして、記憶には複数のタグがつけられており、インターネットの検索のように、「彼女について思い出せ」と言うタグで、過去に付き合った女性がつぎつぎとピックアップされるような時間と空間を越えた記憶再生法もあれば、その彼女に付随して、一緒に見た映画や音楽などが思い出される芋づる式の記憶再生法もある。暗記上手な人は、タグのネーミングのつけ方と、芋づるの結び付け方がうまい。
そして、人間は長く生きるほど、似たような言葉を再利用する。例えば、「紙」という単語の記憶量は小さい。しかし、トイレで思い出せばトイレットペーパー、電話やスーパーではメモと、場所と共に記憶すれば意味は多様となる。読書時にはしおりをはさめ、パソコン時にはプリンターに入れておけという動作の指示、あるいは「何月何日にだれそれに書類を渡す」と言う複雑な内容を「紙」の一文字で記憶することも可能である。そして、こういった複雑な意味を伴う記憶は、人間、一人一人によって異なり、他人にはまねのできない記憶再生法となる。こればかりは、どんなに科学が発達して、脳波から思考が読み取れるようになっても、他人の心を完全に覗くことができない理由の一つである。
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