現代英語、日本で言う女子高生の絵文字のような、絵や発音記号のような英語が、フェイスブックやブログに登場して久しい。今でも英語は、科学の発展と多くの言語を巻き込むことで進化し続けており、生まれたイギリスの標準英語から遠ざかりつつある。
もちろん、方言はイギリスにも多く、イギリスでは今でも地域ごとにバラエティ豊かな方言が健在である。日本の学校教育のリスニングテストで聞きなれた耳には、とても同じ英語とは思えないような、豊かな発音の英語が生きている。
『英語の冒険』を読むと、英語が吸収してきた外国文化と、英語が発信してきたイギリス文化の歴史を、共有できるような気がしてくる。
英語教育が世界中で広まったのは、産業革命のお陰である。だが、辞書の功績が大きい。つまり、英語の書き方、発音の仕方のマニュアル本が、他国よりも広く早く普及したために、海外でも教えやすかったのだろう。
この『英語の冒険』によると、イギリスでは、14世紀にラテン語の聖書が英語に翻訳され、17世紀に英語の辞書がでてから、標準英語がイギリス中に広まり、方言は恥ずかしいと言う概念が生まれた。
16世紀末から17世紀にシェークスピアの劇が現在のテレビや映画のように全国区で流行となってからは、シェイクスピアの台詞が流行語となり、全国共通のジョークや共感を生み出した。日本で、世代共通の感覚、日本全体の流行というのが生じるのは、テレビの存在が大きい、そして、標準日本語の普及が進んだのも、戦後のテレビの影響であったのかと思う。
そして、外国語であるラテン語の本ではなく、イギリス人が英語の書籍を大量に出版できるようになり、科学がそして産業革命が進んだのも、注目に値する。
これまで、どんな発見も発明も、いつ誰がどのように行ったのか、記録されずに来ている。しかし、書籍のお陰で、庶民の工夫や発明がイギリス中で共有されるようになったという。物理学も、化学も、博物学も、当時、サイエンス(科学)と呼ばれた学問は、特別な科学者ばかりでなく、語学に長けたいわゆる文系の学者や、中小の町工場で発展してきた。
今の学校の教科や科目の分類、一部の科学者の独占が、なぜか不自然に思えるほど、誰もが身近なところで様々な領域の最先端に触れている。
「コンピュータ用語」「映像や音響機器」など、最新の発明や製品に関する英単語を、各国が自国語に翻訳すべきところを、ついつい直訳が難しく、カタカナ英語で取り入れて来た。
英語が世界のグローバル化を進めてきたと言っても過言ではない。
英語がこのように普及したのが、この百年二百年のことであり、インドが植民地化されるまでは、インドの方が商業など、豊かな文化を営んでいたという。むしろ、ヨーロッパでは、北欧や地中海諸国に比べ、海外進出が後発隊であったイギリスであるから、他のヨーロッパ諸国には負けるまいという自負があり、伝統や貫禄を宣伝する戦略に長けてきたのかもしれない。自国に対するイメージ戦略は、アジアの各国も見習っている。日本が、政治システムや教育等でイギリスをモデルにしてきたのは、資源の少ない島国の生きる術を、イギリスが発信してきたからであろう。
現在、グローバル化の弊害も目立ってきている。再び、自国語のよさ、方言の良さ、中小の町工場が時代の最先端を行くことも見直し、英語に征服されるのではなく、英語と言う道具を世界で共有できればと願う。
そして、日本語という道具や日本文化も、英語のように世界で愛されればと願う。日本語でなければ説明できない概念、「かわいい」という単語のように、アニメやティーンエイジ文化と共に、大人の文化、平和の輸出をしていきたい。
そのときには、「日本語の冒険」をまとめるような、自称「アマチュア」が日本に育つのだろうか。
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